PINKちゃんねる/エロパロ&文章創作板の
【異形化】人外への変身スレ第三話【蟲化】に投じたものをまとめました。
※追記
greenbackさんの
「へんなかがみ」にて、
この話のイラストが公開されました。元の文章よりはるかに優れた変身シーンの描写ですので、ぜひご覧くださいませ。
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第一章……一日目
「リネット王女、ご機嫌麗しゅう。我が名はアガレス。変化の公爵」
目の前にいる美しい女は、そう名乗ってわたしに笑いかけた。
異形の存在だった。
鰐の背に乗り、肩には鷹を止まらせている。緑の衣を身に纏い、片足を淫らにも剥き出しにしている。王宮で魔道師に教わった通りの姿をしていた。
顔立ちには非の打ちどころなく、真っ当な装束で着飾れば、王室の舞踏会に現れても不思議でない気品を備えている。年の頃は兄上と同じくらい。二人を並べれば、似合いの美男美女と取り沙汰されてもおかしくなさそうである。
なのにそこには何か、人を怖気立たせる瘴気のようなものが漂っていた。
魔族の大立者アガレスともなれば、それも無理はない。戦いにおいては地震を起こすほどの強力な魔力を誇り、言葉を巧みに操っては人々の尊厳を破壊するという。
なぜか慈悲深いという言い伝えもあるそうだが、悪魔の慈悲などまやかしに過ぎまい。
恐怖に萎えそうになっている心を強いて奮い立たせ、常と変わらぬ態度を取ろうと努めた。王女たるもの、気品を失うことなどあってはならない。
「これは夢、ですね」
わたしとアガレスを取り巻くのは無明の闇。踏みしめる大地も仰ぐべき天もない。今わたしが着ているのは、今日の式典用に誂えていたドレスだが、その後の騒動で埃や泥にまみれたはずのそれは、最初に袖を通した時と変わらない美しさを保っている。
「いかにも。いちいちそちらへ足を運ぶのは、ぶっちゃけ七面倒臭いので」
終わりの方は俗な言葉過ぎて何を言っているのか定かでないが、言いたいことはおおむね理解した。
悪魔はそれぞれが各々の領域からあまり遠くへ出ようとしない。それはもちろん人を警戒してのことではなく、悪魔同士の縄張り意識がひどく強いためであるという。ゆえに労を惜しんで夢の中で人に働きかけるのはよくあることだと、これも魔道師に教わったことがある。
夢であれば、悪魔の魔力であってもさしたる効果を発揮しないとも聞いた。もとより王家の一員として無様に怯えるつもりはないが、なおのこと恐れる必要はない。
そこで、わたしは魔族に問いかけた。
「今日の出来事は、あなたの仕業ですか」
「半分正解でございます。貴女様を連れ去りしは、当人がこっ恥ずかしい名乗りを上げた通りに、魔王ダークエンペラーことマールドラ町の三十四歳独身無職のトム・ブラウンでありまして、わたくしは彼奴に少々力を与えた上でいささかそそのかしたまでのこと」
アガレスの語った内容は驚くべきことだった。
わたしが暮らすエルスバーグの城に今日突如襲来し、わたしをさらってこの洞窟に監禁したあの魔王とやらは、実は単なる我が国の辺境の町の住民であり、この悪魔の手引きを受けたというのか。
「なぜそのようなことを?」
悪魔は人の天敵であり、人を殺し傷つけ苦しめるのが生業のようなものである。しかし悪魔は人間以上に知性の高い種族でもあり、その行動には合理性があるはず。
それが、わざわざ人間に魔力を与えて暴れさせるとはどういう了見なのか。破壊行為を働きたいのであれば直接動けば済むものを。
「さて、長くなりますが、ご静聴いただくといたしましょう」
「ものには順序がございます。まず手始めにはエルスバーグより遠く離れし大国ポートスパンの伯爵家ご令嬢オクタヴィア・アルビステギの話から」
「その名前は覚えています」
「左様。彼女はこのエルスバーグを昨年訪れたことがございます。とは言えポートスパン王家ご息女来訪の折の随身ですから、むしろその名をご記憶なさっているリネット様の記憶力が優れていると申すべきでしょう」
「つまらぬ世辞などいりません。少し愉快でない出来事があったから覚えていただけのことです」
エルスバーグを見下した、無礼な振る舞いの数々。それだけならば耐えもしたが、世話を任せた女官たちに傷まで負わせるに及んで我慢も限界に達し、衆人環視の元であの思い上がった娘を面罵した。外交問題に発展してもやむなしと思っていたのだが、幸いポートスパンの姫君が冷静で賢明な方であったおかげで、ことは速やかに収まった。結果、オクタヴィア一人が満天下に恥を晒す格好になったわけだ。
「これは失敬。いかにも、あれは不愉快極まりない事件でしたね。わたくしはオクタヴィアの口から事情を聞きましたが、それでも非は明らかにあのお脳の足りない小娘にあるとわかりました」
「あなたはオクタヴィアに会ったということですか?」
「はい。それがこの糞ったれな事態すべての発端でして」
アガレスは唇を歪めた。あまりわたしが見たことのない種類の笑み。
「ポートスパン帰国の後、憤懣やるかたないオクタヴィアは先祖伝来の宝物庫の中にとある品物が入っていることを思い出しました。正確に使用すれば、ある代償と引き換えに悪魔を呼び出して使役できる杖です」
息を詰めて話に聞き入るわたしに対し、アガレスは大袈裟なまでにため息をついて肩をすくめてみせた。
「要するにこれ、わたくしが大昔にこしらえた罠なんですがね。使い方には一々面倒な手順があり、呪文詠唱の一言、準備した魔力触媒の品質、召喚の際の手振り一つ、果ては儀式の日時や場所まで、どれか一つでも指定の作法にのっとっていなけりゃ、たちまち愚かな召喚術士気取りをとっ捕まえておいしくいただく寸法。それらすべてを間違えないくらい賢い者なら、代償に差し出すものを惜しむに決まってるから、こんな杖を使うわけがない。どっちにしろ、わたくしが実際に人間に仕えて労働に励む可能性なんてこれっぽっちもないはずだったんですけど、ねえ」
「……オクタヴィアは成功したわけですか」
「話が早くて助かります。猿が紙にペンででたらめに書きつけたら抒情詩ができたってくらい低い確率のはずだったんですが」
「それで、彼女の望みは?」
聞くまでもないことだが、確認せずにはいられない。
「貴女様の破滅。肉体的苦痛と精神的恥辱にまみれた生涯。当然、オクタヴィア本人はこんな簡潔な物言いはしてないわけですが、長ったらしくてうんざりする恨み節を要約するとそんなとこです」
アガレスの答えはあまりに予想通りだった。
「ま、こちらとしても代償を確実にいただける契約ですんで。仕事はきっちりやらせていただきます」
「……代償、とは?」
「あまり慰めにもならないでしょうが」
アガレスはこれも予想通りの答えを返した。
「それにしても落ち着き払っておられる。たとえ安全な夢の中とは言え、悪魔を前にしてこうも平然と話ができる人間はあまりいませんよ。しかもたった今ご自分の破滅を宣言されたというのに」
「怯え震えて乞い願えば破滅から逃れられるというのなら、いくらでも浅ましい振る舞いをしてみせますが」
「あいにくそういうわけにもいきません」
悪魔について学ぶ際、アガレスの名は極めて早い段階で教わることとなる。それほどの存在が、獲物の嘆願や小芝居ごときで己の行動を変えるとは思えなかった。
「それに、心は今日の午後よりすでに、千々に乱れております。城壁や王宮が破壊され、多くの人が傷つきました」
ロビン。
魔王を名乗る者に果敢にも斬りかかって、強烈な魔力で壁まで吹き飛ばされたロビンは、どうなったことだろう。
近衛兵に取り立てられて日が浅い彼は、剣の腕前なら近衛の中でもすでに一、二を争うのだが、城内での作法についてはまだ勉強不足なところがあり、家柄のおかげで素早く出世したような者どもにたびたび嘲られていた。
なのに生真面目に穏やかに勤め上げるばかりの彼がいじましくて、今朝、わたしは思わず彼らの只中で言ってしまったものだった。
――六代前のジェイコブ王は庶民の出ながら剣術に秀でて王女の危難を救い、近衛の職位から王になったとか。皆の者も何よりまず職務に励まれるように。
普段ロビンをいじめている者たちの唖然とする顔を見たくて口にした言葉だったが……あの言葉がロビンに余計な傷を負わせる原因になったのではないかと、わたしは不安におののいていた。
最悪の想像が口から飛び出してしまう。
「中には命を落とした方もおられることでしょう」
アガレスはわたしの問いに対して沈黙で回答した。
「繰り返しになりますが、なぜ力強き悪魔アガレスともあろう者が、あのような粗暴で愚かな人間を手先としているのですか? 願いが単にわたしの破滅一つであるならば、わたしだけを狙えばよかったものを!」
アガレスは、眉根を寄せる。まるで困った人間と同じように。
「そうしたいのは山々ながら、問題がいくつかございます。まず、このエルスバーグは口うるさいアモンのテリトリーでして、そこへわたくしがのこのこ現れて一暴れした暁にはしきたりがどうの礼儀がどうのといった揉め事になるのは必定なわけです。他にもこの近くにはベリアルとかグラシャラボラスとかどうにも面倒な輩が多いし」
何やら、わが一家の親戚づきあいにも似ている話。そういう問題では人も魔族も変わらないということなのだろうか。
「さらに、わたくしが直接貴女様に危害を加えるてなことになると、エルスバーグおよび周辺国が傾きます」
「……それはどういう意味ですか?」
「この近郷がなかなか微妙な力関係でバランスを取っていることはご存知でやんしょ?」
なぜか道化芝居の三下のような口調になる。妖艶な美女の姿にはふさわしくない。
「そのど真ん中に位置するエルスバーグが突然悪魔の襲来を受けて王女をさらわれたなんてことを知ったら、周りの国が色々企み出すものでしてね。エルスバーグの国内も動揺しまくればあっという間に西部大陸大戦争の始まり始まりってなもんでげす」
「……それは、魔族の望むところではないのですか? 死と破壊こそが悪魔の本懐というものでは?」
わたしが口を挟むと、アガレスは悲しげに首を振った。
「人間の皆さんはどうにも誤解なさっておられる。もっとも、昔の我々の行為に原因があるのですからこれも自業自得というものですが」
台詞だけ抜き出すとなかなか悲痛だが、言い方が安っぽい役者めいていて、説得力は微塵も感じられなかった。
「魔族は、生物の精神活動を喰らいます。人間が他の動物や植物を喰らうように」
「精神活動、ですか。喜怒哀楽などの?」
「はいその通り。生物ですから植物や他の動物からも摂取できないことはないのですが、心穏やかな植物や知性に乏しい動物の精神という奴は、あまりコクや深みといったものがないわけですよ」
口調はふざけているが、わたしには初耳の話だった。
「喜怒哀楽を食べられた人間は死ぬのですか?」
「いえいえ、そんなことはござんせんよ。人が焚き火にあたって暖を取るのと似たようなもので、わたくしどもは横から皆様のおこぼれにあずかっているに過ぎません」
「ですが……」
それならどうして、魔族と死や破壊がこうも密接に結びついているのだろう?
「ただですね、とりわけ美味なのが死ぬ直前の感情の爆発でして」
「!」
「苦痛とか悲哀とか後悔とか激情とか絶望とか、そういうものは思い出すだけでもよだれが垂れるくらいおいしくてですね、なのでわたくしどもは昔はそりゃあ乱獲しまくったわけでございます」
「…………」
「ただ、人間たちが植物や動物を採取狩猟するよりも栽培や育成で安定した収穫を目指すほうが得だと気づいたように、我々も次第に変わっているところでして。今時の悪魔という奴は、人の世の大規模な混乱など、頭の悪い下等な連中を除けばもはや誰も望んでおりません。一瞬の快楽に身を委ねても、また人が増え始めるまでの長い期間は餓えに喘ぐことになるわけですからねえ」
「…………」
アガレスの言い分は、それなりに筋が通っているようにも思われた。
「ですが――」
どの道、わたしがこうして囚われの身となった以上、戦乱は避けられないのではないだろうか?
そう続けようとしたわたしをアガレスの言葉が遮った。
「この件は、ほとんどの人間が納得の行く形で収拾をつける運びになっております。筋書きはすでに書き上げてありまして、後はその通りに役者が動いてくれればいいだけの話」
貴女はその「ほとんど」には入っていないのですけれどね、とアガレスは付け加えるように呟いた。その声音は妙にしんみりとしたものだった。
「様々な人の生き死にも、あなたたちにとっては芝居……あるいは駒遊びの一種というわけですか」
「否定はいたしません」
アガレスはわたしの批判を軽く受け流す。
もっとも、わたし自身王家の人間として、いずれはそうした駒遊びにじかに関わったかもしれないのだが。
「トム・ブラウン改めダークエンペラーは、駒としてはまさにうってつけなんですね、これが」
はしゃぐように悪魔は話題を転じた。
「死んだ父親の遺産で悠々自適を気取っていたのが怪しい事業に手を出したのが災いして今では食うや食わずの貧乏暮らし。そのくせ気位が高いせいで人に頭を下げて働くことに踏み出せない。しかも最近では母親に、近衛兵に取り立てられた年下の従兄弟と比べられて、鬱屈を抱えながら自堕落な生活を送っていたという典型的な穀潰しです。リネット王女のような若くて魅力的な女性と出会えないものかと考えながら、しかし外に出るでもなく妄想の中で日々遊んでいただけの屑です」
「でも、あなたがそそのかさなければ、こんな大それたことはしなかった」
「王女はお優しいですね。自分をさらった相手だというのに」
その声は、さっきと同じくどこかしみじみとした響きを伴っていた。
「王族たるもの、国民を気遣えなくなったらおしまいです。それが悪魔にたぶらかされた愚か者というのなら、なおさら」
もちろん建前に過ぎない。怒りや憎しみや恐怖の念を、あの自称魔王に対しては抱き続けている。しかしすべてを仕組んだ張本人の前でそんな感情を顕わにしても空しいだけだということは理解していた。
わたしが睨むように見つめると、アガレスは視線を逸らした。
「話を戻しますが、彼は多少の知識はあれど大した魔力を持ってはいなかった」
アガレスが語る言葉に思い出すのは、堅牢な城壁を難なく突き破り、ロビンをあっさりとなぎ払った、魔王を名乗る男の絶大な魔力。
「いや、今も大した魔力じゃございません。あれを倒せる人間は、世界に二十人ぐらいはいるでしょうね」
「に、二十人?」
人の身であれに対抗できる者が二十人もいることが、むしろ信じられない。
「ええ。その辺もうってつけと評した理由です。悪魔アガレスに挑んで姫を救わんとするのは至難の業ですが、あのダークエンペラーに立ち向かうのはさほど困難な話でない」
「つまり彼は、征伐されるために力を与えられたわけですか」
「そういうことです。だからと言って貴女が憐れむ必要はないと、台本を書いた者としては助言しておきましょう」
「……あなたはさらに彼を操るわけですね」
「ええ。貴女を破滅に導くために。まあ、一つだけご安心を。貴女は彼に肉体的に汚されることはありません。彼奴にはわたくしがきつく言い聞かせておきますので」
「それも、戦乱を避けるための布石ですか?」
「よくおわかりで」
仮面のような笑みを浮かべると、アガレスは優雅に一礼して消え失せた。
第二章……十日目
「リネット王女、ご機嫌麗しゅう」
夢の中へ姿を現したアガレスに、わたしは無言で飛びつこうとした。
しかしわたしの身体は奴の身体をすり抜けてしまう。魔族が人間に危害を与えられないように、人間も夢の中では無力である。
それでも、今日の怒りと悲しみは誰かにぶつけずにいられなかった。
今日、目の前でたくさんの人が命を落とした。
わたしを救うために編成された部隊。この洞窟へ突入し、わたしの目の前まで迫りながら、彼らは壊滅した。わたしの牢番に配置されていたブラックドラゴンの炎と角と爪と牙と尾によって。
自称魔王はすでにこの洞窟を離れ、わたしに三度の食事を運ぶとき以外は別の地に築いた居城に引きこもっている。そこで配下にするモンスターの生産に取りかかっているらしいが、そんな奴が最初に作り出した強力なモンスターが、このブラックドラゴンだった。
牛や馬の十倍はある巨大な全身を漆黒の鱗で覆われ、腐臭漂わす息を吐き散らし、周囲を動き回る生き物を見境なく食い漁り、長すぎる尾を引きずりながら四つ足で無様に這い回る、おぞましくて醜くて、知性のかけらも見当たらない魔物。
だがその鱗と角は鍛錬を積んだ兵士の剣を弾き返し、肺腑に秘めた炎は敵対するものを簡単に焼き殺し、魔物の甲羅とて噛み砕く牙は鍛造した鎧など意に介さず、四肢と尾はすべてが石柱のような威力で殺到する兵士を砕いた。しかも造物主の命令には極めて忠実で、わたしのいる牢内には炎の一息すら吹き込まない。
そんな黒い竜は、王国軍の精鋭で構成された部隊を蹂躙した。最後に煙幕を張って戦線離脱を図った者たちがいたので、何人かは逃げおおせたかもしれない。
でも。
「彼は……」
思いが唇からこぼれ出てしまう。
しかしわたしの怒りにも悲しみにも表情を乱さず、アガレスは微笑みかけてきた。
「ロビンのことですね」
「!」
「以前にお話ししました通り、トム・ブラウンには年若い従兄弟がいます。剣の腕により近衛兵に取り立てられたその者の名はロビン。姫を救出する部隊に彼が含まれていれば、トムが彼に対する恨みを晴らさんとブラックドラゴンを特別にけしかけたのも、これを知っているなら驚くことではありません」
「お前は最初からそれを知っていたのか!」
ブラックドラゴンにとりわけ徹底的に嬲られたロビン。にも関わらず、何度も何度も立ち上がり、鉄格子の向こうのわたしを見つめ、一途に突き進んできたロビン。
あれは、魔王によって事前に指示されていた黒竜が手加減した結果なのかもしれない。しかし同時に、ロビンが誠実に務めを果たそうとしたからでもあるだろう。そうでなければもっと早く後退して逃げることだってできたのに。
「トムとロビンの関係については。しかし王女のロビンへの恋心ばかりは存じ上げませんでした」
「! こ、恋などではない!」
「そうですか。ではそういうことで」
わたしの言葉を否定もせず、アガレスは再度微笑んだ。
「今宵は心の準備をしていただこうと、敢えて来訪した次第。明日、貴女はこれまで以上に悲惨な目に遭いますので」
「……今日以上に悲惨なことなど、あるものか」
「それはいささか想像力が欠如しておりますね。お忘れなきよう。わたくしは貴女を破滅させるため、貴女の尊厳を破壊するために働いているのでございますから」
アガレスは優雅に一礼して消え失せた。
第三章……十一日目
「リネット王女、ご機嫌麗しゅう」
三度現れたアガレスと向かい合う自分の姿を見下ろして、これが夢の中の出来事だと確認する。確認できてしまう。
なぜなら今、わたしは昨日までのように人間の姿をしているから。
「竜の身体には慣れましたか?」
「……慣れるわけがない」
昨日、わたしの目の前でロビンたちを惨たらしく傷つけたブラックドラゴン。
わたしの魂は今、その醜く罪深い竜の身体に封じ込められている。
今朝――洞窟の中ではあるが、魔法による灯りである程度の時刻はわかる――、わたしの牢にあの自称魔王が朝食を携えて現れた。以前から自分の力や自分が生み出した魔物の強さを自賛して止まないあの者は、あろうことかわたしに求婚した。
――エルスバーグはじきに僕に支配されるのだから、新国王の妻となるのが旧王家の姫たる君にはふさわしいでしょう。
気取ったわりに品がなくまるで似合わないたわ言に対し、わたしは鉄格子の奥から冷笑と短い侮蔑の言葉で応じた。
アガレスと交わした会話は覚えていた。わたしの破滅とは、すなわちここで殺されることかと推察もした。でもそれを恐れはしなかった。
前日にロビンの切り裂かれ焼け焦げ砕かれ一部が失われた姿を見た時から、わたしの中の何かはすでに死んでいたのだから。
だが、彼奴はわたしを殺しはしなかった。
――予言通りの返答だな。魔神様は常に正鵠を射抜きなさる。
顔をしかめながらそう言うと、あの男はブラックドラゴンを呼び寄せて、なぜか呪文を唱えると黒い竜の全身を魔力の鎖で縛り上げた。
そしてわたしに顔を向け、アガレスの操り人形であるあの男は歪んだ笑みを浮かべて言ったのだ。
――僕が好きなのは君の肉体であって、魂には興味がない。むしろ従順な魂を入れ、その肉体に相応しく育てるほうが好もしい。
直後に唱えられた呪文は、光の輪のようなものだった。それが直線に近い形に引き伸ばされると、それぞれの端がわたしとブラックドラゴンの体内に吸い込まれる。
――お前は一体、何を
わたしが『わたし』の声でしゃべれたのは、そこまでだった。
輪の端が身体に入り込んだ結果、身体には二本の光の糸が生えているようになっている。その一方が外へ引き出され、それにわたしは為す術もなく引きずられる。また、もう一方はこちらへ引き込まれていく。
わたしの身体はまったく動いていない。しかし『わたし自身』は糸に雁字搦めにされたように感じていて、糸とともに凄まじい勢いで動き始めている。
すぐにわたしは『わたしの身体』の外に引きずり出され、『リネット』の姿を外から見ることになった。魂を抜かれたような虚ろな表情をしていた。
わたしは自分が光る球体のような存在となって光の糸に絡みつかれていることを理解した。そして、鉄格子を超えて糸の進む先にはブラックドラゴンの身体があることも、竜の身体から飛び出した光る球体が糸に乗って『リネット』の身体へと向かっていることも。
抗おうにも抗う方法もわからないうちに、わたしは邪悪な黒竜の身体の中に吸い込まれていき、その身体の新たな持ち主となった。
――この洞窟は君に差し上げよう。迷い込んで来たモンスターや動物、もちろんお好みとあらば人間も、君の食料になるはずだ。その鎖はもうしばらくすれば消滅するように設定してあるから心配はいらないよ。
魔王は牢の鍵を開けながら、もったいぶった口調で言う。そして、突如人間の少女になって呆然とその場にへたり込んでいるさっきまでのブラックドラゴンを優しく抱き寄せると、跳躍の呪文を唱えて消えてしまった。
後に残されたのは、さっきまでエルスバーグ王国の王女であったはずの、醜いブラックドラゴンが一匹。
「ダークエンペラーは古い物語を読んでいて、白紙から自分好みの女性に仕立て上げるお話に心惹かれるものがありましたので、彼好みのアドバイスをしておきました。もっともブラックドラゴンは無知この上ないですから、実際に満足のいく成長を遂げるには四、五年は待たないといけないわけですが」
「……その間に彼は滅ぼされ、『心を病んだ王女様』は数年後に回復を遂げるというわけですか」
なぜかわたしは、再びアガレスに対して敬語を用いていた。悪魔に対する憎しみ以上に、金属の軋みのごとき鳴き声とは違うまともな人間の言葉をしゃべれる喜びが大きかったからかもしれない。
「さいでございます。これなら『王女』は損なわれず、しかし実際には王女は苦痛に見舞われる。依頼主と周囲の皆様の矛盾する要求をうまいこと切り抜けたすんばらしい発想と自負しておりますが?」
「そしてわたしは邪悪な竜として討伐されるというわけですね……」
もうわたしは夢の中でしか言葉をしゃべれない。不恰好な四つん這いでは字を書くこともままならない。何より今の醜い身体では、人と言葉や意思を疎通させること自体が不可能だ。つまりは魔王の手先にして王女救出部隊の仇でもあるブラックドラゴンと思われたまま、やがて現れる勇敢な冒険者の手でみじめに殺されて屍を晒すのみ。
嘆きの呟きに返答を期待したわけではなかったが、アガレスは道化た笑みを引っ込めると神妙な顔をして言った。
「勘違いしないでいただきたいんですけどね、わたしは依頼主にとって最善の手を打ち続けるつもりですが、別に貴女の未来が確定したわけではありませんよ?」
「……え?」
「悪魔が万能じゃないことくらい、おとぎ話でご存知でしょ? 運に恵まれれば、どうにかなるかもしれませんよ。元の身体を取り戻せるかどうかはわかりませんが、こちらの意図した破滅ぐらいは免れるかもしれません」
「しかし、この状況はすでに詰んでいます」
竜とて決して無敵ではない。すでに情報は伝わっているはずだから、洞窟の外に出れば優秀な魔術師たちによる遠距離魔法の集中砲火を浴びて滅ぼされる。かと言ってここに篭もっていても、魔力を秘めた武具で身を固めた腕利きの剣士や騎士に乗り込まれたらそれまで。人と戦うつもりなどないわたしはいいように嬲り殺されるだろう。
仮にそうした人材の手配が遅れるとしても、この巨体を維持する食料をどうするか。外に出た場合、牧場などを襲って牛や羊を丸呑みでもしないことには胃袋が満たされそうにない。内に潜み続ける場合、辺りを蠢き回るおぞましいモンスターを捕食することになる。どちらも耐えがたく、だが空腹も今日一日ですでに忍耐の限度に達している。
「これくらいは妥協と開き直りで乗り越えられるでしょう」
わたしが陥っている窮境を理解しているだろうに、アガレスは一言で切り捨てた。
「ではまたいずれ。たぶん貴女とは次に会うのが最後になるでしょうね」
言い残すと、アガレスは優雅に一礼して消え失せた。
第四章……六十日目
「リネット王女、ご機嫌麗しゅう」
闇の中にアガレスが現れた。
反射的に身構えて、ここが夢の中であることを思い起こす。自分が本来は人間であったことも。
わたしの姿はたちまちブラックドラゴンから人間に戻った。今のわたしからは奪われて久しい姿へ。周囲から褒めそやされ、自分でも内心誇らしく思っていた、それなりに美しい少女の姿へ。
「機敏な反応でございましたね。さすがに五十日モンスターと戦い続けると、野生の勘のようなものが鋭くなってくる」
「…………」
言いたいことが多すぎて、さらに久しく話というものをしてなかったせいで言葉をうまく発せられなくて、また、アガレスがまず口にしたこの言葉に我知らず打ちのめされて、わたしはしばらく黙りこくってしまった。
すでに日数を数えるのは止めていたが、確かにわたしはこの数十日間洞窟の中でモンスターと戦い続けていた。それらを喰らうために。
外に出るのは、食料確保に関してと、わたしをモンスターと判断して問答無用で襲撃するであろう兵士や冒険者に対してと、二つの不安によって断念した。
その点この洞窟には弱いモンスターがふんだんに生息し、しかも今のわたし――ブラックドラゴンの戦闘能力を活用するには絶好の環境であり、さしたる困難もなく生き延びることができるのだった。
アガレスと会った翌日、最初に喰らったモンスターは今でも忘れられない。甲羅で身を守り無数の触手を蠢かせて這い回る、メバと呼ばれるモンスター。グロテスクな外観な上、甲羅を剥いでも中の肉さえ人間には有毒で、しかも樽ほど大きく人間にとっては凶暴な魔物ということもあり、人がこれを食した記録などどこにもない。
ただわたしは、人間の王女として囚われの身であった頃、今現在のこの身体であるブラックドラゴンが、床や壁をのそのそ這い回るこのメバを見つけると嬉々として捕食するのを何度となく目にしていたのだった。
もちろんいきなりそんなものを口にする勇気があったわけではない。しかしその時わたしの近くにいた、食べるのにまだ抵抗の少ない他のモンスターは、素早く動き回る種類のものばかり。ドラゴンになって丸一日も経っていなくて身体を使いこなせず、飢えで衰弱もしているわたしには捕えられそうになかったのだ。
同じ生き物が、単に魂が変わっただけで、それまで食べていたものを突然毒に感じるわけもない。そう自分に言い聞かせながら、わたしは前肢でメバの甲羅を押さえつけた。
メバは危険を感じたか、柔らかく粘つく触手を何十本とうねらせ、一部はわたしの前肢に届く。その不快さに耐えられず、わたしは肢を離してしまった。
それでも、いつまでも何も食べないままではいられない。肢の先から力が抜け、ただ歩くことすら苦痛になり、蝙蝠や鼠が変じた素早いモンスターが不穏にもわたしの周囲をちょろちょろと徘徊し始める。生まれて初めて、わたしは餓死の危険を肌身に感じた。
思いついて、メバに炎を吐いてみる。だが火力の加減をまだできなかった当時のわたしは、メバを完全な灰にしてしまった。
わたしは覚悟を決めた。
手近なメバを掴み取って口の中に放り込み、一心不乱に噛み砕く。ドラゴンの鋭い牙は甲羅をも簡単に咀嚼できた。触手はしつこく口の中で蠢き続けたが、舌と唾液で牙に絡みつくそれらをこそげ落とし、無理矢理喉の奥に送り込んだ。
人間の味覚では表現できないその味は、しかしドラゴンとなっているわたしにはさして不快でもなかった。
一度開き直ってしまうとその後の心理的な抵抗は一気に減り、わたしは様々なモンスターを食べ漁るようになった。
それらの中には、こちらの硬い鱗をも切り裂く刃のような角を備えた鷹や、稚拙ながら魔法を使って眠らせようとする蛙など、ドラゴンの強大な力をもってしても一筋縄ではいかないモンスターが多くて、それらを狩るうち、戦闘などとはまるで無縁に王女として暮らしてきたわたしは、いつしかブラックドラゴンとしての能力を十二分に発揮できるようになっていたのだった。
「まあ、それでもにわか仕込みの王女様が勝てるほど、甘い相手ばかりではないということでございます」
アガレスは軽く笑う。わたしは返す言葉もない。
今、こうして夢を見ているわたしは、現実では頑丈な檻の中に閉じ込められている。洞窟の近くにある村の一角に設置された檻の中に。
アガレスが以前語った存在。アガレスが力を貸し与えている自称魔王に立ち向かえる、数少ない冒険者。今日、そのうちの一人が、わたしの寝ぐらであった洞窟を襲ったのだ。
今日、目を覚ましたわたしは、とりあえず目の前を這っていた五匹のメバを平らげて朝食とした。
空腹を癒すと、毎朝毎夕の日課になった作業を始める。
『私はエルスバーグ王女のリネットです。魔王により竜と魂を入れ替えられましたが、あなたがたと敵対する意思はありません』
と、前肢の爪を使って洞窟のあちこちの壁に彫りつけていくのだ。
洞窟全体には魔王による維持魔法がかかっており、朝と夕方になると洞窟のあらゆる損傷が自動的に修復されてしまう。おかげで激しい戦闘が起きても洞窟はまず崩落しないわけだが、そのたびにわたしの爪痕は空しく消し去られる。
それでもわたしは毎日二回、修復された直後の傷一つない壁に文字を刻む。無益で恐ろしい戦闘を避け、自らが救われる可能性にすがって。同時に、自身が単に本能しか持ち合わせない竜ではないことを確認するために。
作業の順番としては洞窟入り口近くから始めるのが基本だが、その日の気分で適当なところから始めることも珍しくない。今朝は起き抜けに、牢屋前の最も広々とした一角――わたしと入れ替わる前からブラックドラゴンが寝起きしていた場所でもある――から書き始めることとした。
と、書き終えた直後、洞窟入り口の方向から奇妙な物音を聞き取る。
ブラックドラゴンの聴覚は、モンスターの中では大したことはないが、それでも普通の人間よりははるかに鋭敏だ。そんな今のわたしの耳は、金属の鎧をガシャガシャと騒々しく鳴らしてこちらへ歩み来る何者かの足音を聞き分けていた。
最初わたしはいよいよ人間がやって来たかと思って緊張した。『リネット』の身柄は魔王が押さえている。それを魔王が広く宣言していれば、ここにリネットはいないとして問答無用に攻撃が始まるだろうが、そうでなければ人質を警戒して慎重な行動を取るはず。わたしにも自分の事情を説明して理解してもらう余地はある。
だが足音を聞くうちに、疑念が生じ始めてきた。
わたしがドラゴンになってから、洞窟内に人間が入って来たことはない。それでも、鎧を着た近衛兵や騎士の足音は昔から聞き慣れている。その記憶に照らし合わせると、足音の主はあまりに無警戒なのだ。
よほど腕前に自信のある練達の武人ならば、敢えて示威行動の一環として聞こえよがしに音を立てるようなこともあるかもしれない。しかしその足運びたるやどうにも不器用、まるで床を出たばかりの病人のようによろめき、時に壁に手をつくのか一際盛大な金属音を響かせている。だが足取り自体は一定に保たれていた。
――魔物?
鎧を着るのは人間ばかりではない。オークやゴブリン、コボルドなどの亜人が、襲った人間から剥ぎ取った大きさの合わない鎧を着飾ることもあれば、妖術によって生み出された骸骨剣士などの不死生物が武具で身を固めることもある。
――骸骨は食べられないけれど、亜人なら。
わたしは涎を垂らし、舌なめずりをした。亜人は弱くて仕留めやすい絶好の食料なのだ。ことに豚と人を混ぜ合わせたような姿のオークは、肉が多くて美味である。
わたしは素早く洞窟の構造を頭に思い描き、待ち伏せにうってつけの地点まで忍び足で移動した。四本肢の巨体を動かすことにもすでに熟達し、角や尻尾を壁にぶつけるような無様な真似ももうしない。
相手の不意を突ける場所に陣取り、息を殺して待つ。
来た。
わたしは飛びかかり、前肢でなぎ払う。高熱の炎を吐けば一番強力な攻撃になるが、その場合は炭化してしまって食べられないので、よほど危険と判断した時以外は使わないようにしている。
壁に叩きつけられた敵は、だが、即座に体勢を立て直すと剣を構えてわたしに斬りかかってきた。
その姿は、鎧の中に腐肉をまとい、時折ぼろぼろと床にこぼしさえする、亡者。
――ゾンビ?
だが普通の――わたしの知識は王宮で魔道師に教わっただけの、通り一遍のものに過ぎないが――ゾンビであれば、こうも機敏な動きはできない。先刻までの、音でのみ聞いていた遅々とした動きと、この姿とはぴたりと一致する。なのに今現在のこの俊敏な動きは明白に異常であった。
とっさに身をかわしたわたしの前肢を、人型のものが持つには長大な剣が払う。一本の爪を斬り落とし、届いた切っ先は鱗を斬り裂いて足首からもどす黒い血を流させた。
痛みはさほど感じない。竜の身体は繊細ではない。
しかしもちろん、わたしはただの低能な竜とは違い、それなりの知性を有している。目の前の敵は剣呑な存在であると判断する。どこか別の遺跡や洞窟から這い出て来た古代の魔物だろうか。それとも魔王が生み出して性能を試すためにわたしにけしかけた新型のモンスターだろうか。いずれにせよ、倒すしかない。
だけど、炎を吐くのは躊躇してしまった。
一つには、わたしは炎を吐くと直後に大きな隙ができるため。生まれながらのドラゴンならこんなこともないのかもしれないが、わたしはそうなってしまう。もしこのゾンビが焼かれても動けるほど強力な呪力で動いているなら、骨だけの姿でも剣を振るえるかもしれない。そうなったら隙の生じたわたしは格好の標的だ。
そしてもう一つは……説明もできない、ただのためらい。
相貌も腐れ果て、今のわたし以上におぞましい汚れたモンスター。なのに、何となく、見覚えがあるような気がしてしまう。もしかしたら、かつてこの洞窟で命を落とした者の成れの果てかもしれない。わたしを救うためにここへやって来て、わたしのこの身体によって命を奪われた兵士かもしれない。
――倒した後に身元の確認をし、わたし自身が元に戻った後で遺族へ報告をする。
実現可能かどうかは定かでないがそれを目標として、わたしは行動することにした。
戦いは熾烈を極めた。
ゾンビの特徴としては、痛覚の欠落が挙げられる。ゆえにこちらの打撃は相手の肉体を破壊するほど強烈なものでなければ意味がなく、他のモンスターであれば簡単に気絶させられるような衝撃を与えても、それだけではしかたがない。わたしは後の先を取られて何度となく全身を斬り刻まれた。
そしてまた、最初からわたしを翻弄した高い反応速度。殴っても応えないわけだが、そもそもなかなか当たらない。
さらにこのゾンビは、なぜかいくつかの魔法も使うのだ。ブラックドラゴンの身体は魔法への耐性もそれなりにあり大きな傷を負うほどではないが、火球や氷の矢を目の前で放たれると目くらましの効果まで発揮するからたちが悪い。
それでも元々の耐久力の違いが大きかったためだろう。わたしはどうにかゾンビ剣士の両腕両脚を解体することに成功した。
立ち上がれず、それでもなおじたばたと動き回る、生ける屍。
その様子を見ているうちに、わたしはここしばらく考えないようにしていたことをつい考えてしまった。
醜いドラゴンの巨体で洞窟を蠢き、モンスターを襲っては喰らう、今のわたし。
美しい靴を履き王宮の磨きこまれた床の上でダンスを踊る代わりに、裸足の四つん這いで岩と泥と苔が混ざり合った上を歩く。
柔らかなフリルで飾られたドレスを身にまとう代わりに、鉱物のような鱗で全身を覆われている。正確にはそれこそが今のわたしの皮膚。
毎朝侍女にくしけずってもらっていた長い蜂蜜色の髪の毛はどこにもなく、二本の鋭くまっすぐな角が前に突き出ている頭。
歌を歌い詩を口ずさんだかつての口とはまるで形の違う、獣や爬虫類のごとく前に突き出た口。その上顎と下顎には牙がびっしりと生え揃っていて、モンスターの甲羅だろうが骨だろうがお構いなしに噛み砕く。
その口の中に収まるのは、料理人が丹念に調理した食べ物ではない。仕留めたばかりの、あるいは生きたままの、味つけもされてないモンスターの肉。それだけ。
ただただ必死に、生き延びることだけを意識している今のわたしだが、そんなわたしは果たしてまだ『リネット』を名乗るに値する存在なのだろうか? もうわたしはブラックドラゴンであることに馴染みすぎてしまっているのではなかろうか?
そんなことを考えてしまっていたせいだろう。ゾンビの着ていた鎧の端に彫り込まれていた文字を見て、わたしは完全に凍りついた。
『ロビン』
この腐りきった、腐汁を撒き散らす、眼窩から眼球の垂れ下がった動く死体が、ロビン。わたしがうっすらと好意を抱いていた青年。
わたしは、自分が好きだったはずの相手を気づきもせずにバラバラに引き裂いていた。ドラゴンの本能に衝き動かされるように。
慙愧の念など即座に湧くはずもなく、ただ瞬時の衝撃と混乱がわたしの動きを止める。
そして、敵にはそれで充分だった。
地面に倒れてもがいていたロビンの亡骸が、突如背中から羽を生やして宙に舞う。
――!
距離を取ろうとしたわたしだが、反応が間に合わない。
そしてロビンの死体は、今度は腹から無数の触手を、そして口からは紫色に濁りきったガスを、わたしに向かって吐き出した。
どちらか片方だけならば、それでもまだ対処できたかもしれない。しかし触手はわたしの四肢を封じ、ガスはブラックドラゴンであるわたしの頑健な肉体さえも一時麻痺させるほどの毒性を有していた。
――よし、よくやったぞ、ロビン。
そう言いながら、洞窟入り口の方向から新たな人影が歩み寄って来た。
わたしやロビンと同年代の、一見平凡な、しかし数多の修羅場を潜り抜けた風格を漂わせる青年だった。
――炎を吐かなかったのはロビンがスケルトンとして動き続ける二段構えを警戒したからなのか? ブラックドラゴンにしちゃ知恵が働く戦いぶりだったな。さすがは王女様の番兵を任されるだけのことはある。殺すのは止めだ。
青年はそう言うと、ロープを取り出してわたしを縛り上げる。よほど強力な魔力が込められているのか、わたしはかすかな身動きも声を上げることさえもできなくなった。
どうやら彼が、かつてロビンだったゾンビを操っていたらしい。と言うことは、彼こそは魔王を倒す実力を持った冒険者なのだろうか。そう言えば冒険者には魔物使いを生業とする者もいると聞いたことがあった。
それなら彼に、さっき洞窟奥に刻みつけた文を見てもらえれば。『リネット』の救出も彼の任務のようなのだし、これから奥へ進んでもらえれば。
――ま、ロビンもぼろぼろだし、今日のところは一旦帰るか。明日朝一番で強化した後、改めて奥に挑むとしよう。
冒険者はそう言うと、わたしをロビンと二人がかりで引きずりながら洞窟の外へ出て行ってしまった。
「リネット様の破滅は、最終段階に達しました」
アガレスは、飄々とした声音でわたしに宣告する。
「肉体的な苦痛。精神的な恥辱。この五十日で王女はそれらを存分に体験し、しかも今後もそこから抜け出す見込みは皆無に等しい」
たぶんアガレスが言うからには、そうなのだろう。
よしんば仮に『リネット』の身体と生活を取り戻せたとしても――
「もし万々が一、元に戻ることができたとしても、この苦痛と恥辱は魂にまで焼きつき、王女は決してまっとうな幸福など得ることができない。そうお思いになりませんか、オクタヴィア様?」
突如アガレスが背後に呼びかけると、闇の奥からポートスパンの伯爵令嬢が姿を見せた。深い眠りにでも陥っていたところだったのか、夢の中でもネグリジェを着ていて、だらしなく着崩している。
オクタヴィアは、急の出現に戸惑うわたしを一瞥して言った。高慢がすべての美点を台無しにする、古い家柄の愚かな貴族にありがちの醜さには、一層磨きがかかっていた。
「まだこの女、夢の中では人間の姿じゃないの。実際はどんな浅ましい化け物になっているのか、はっきり見せて欲しいわね」
「かしこまりました」
オクタヴィアの要求に、アガレスは唯々諾々と従う。そしてわたしに指を向けた。
「アガレス、あなた、何を……」
「悪魔は夢の中では力が激減します。しかし何もできないわけじゃありません。夢魔なんて連中もいるわけですしね」
そして変化の公爵は、わたしに一条の光を発射する。
それに射抜かれたわたしは、夢の中なのに激しい熱に襲われた。光の当たった部分から身体全体へと、耐え難い熱さが広がっていく。
目眩を感じ、立っていられなくなって、わたしは両手を下に突いてしまう。
すると。
人間であった――夢の中では人間のままでいられた――わたしの身体が、次第に変化し始めた。
長く伸ばした髪の毛が抜け落ちていく。
白く滑らかな腕が黒みを帯びた硬い皮膚へと変わりながら太く大きくなっていき、五本ある小さな指は鉄をも両断する長く凶悪な爪を備えた四本の指へと形を変えていく。
顎の形が変わっていく。鼻を伴って前方へ長く伸びていく。その内側では歯が牙へと変化していく。
全身が巨大化していき、最近の夢の中でわたしがずっと着ていたドレスは簡単に破れ、虚空の中に散り散りになってしまった。
身体の中で内臓まで変わっていくようだ。ドラゴンには炎を生み出す器官があるようで、呼吸器と入り混じるそれの影響により、吐く息は火山地帯のごとき腐臭を漂わせるようになっていく。
髪のすべて抜け落ちた頭部には二本の角が、尻からは体長に匹敵する長さの尾が、圧倒的な存在感とともに生え揃う。まるでわたしに、今の自分が人でないと常に言い聞かせるためのように。
熱さが全身から引いていった時、わたしは完全なブラックドラゴンに成り果てていた。
「これにてリネット王女は夢の中でもドラゴンの姿で生きていくこととなりました。いかがでしょう、オクタヴィア様?」
「この先一生? 本当に?」
喜色満面に、オクタヴィアが確認する。
「これまでアガレスが言を違えたことがありますか? 契約が続く限り、アガレスは貴女様の忠実なしもべです」
アガレスの言葉は真実だとわたしにはわかった。
全身を――ここは夢なのだから、つまりはわたしの魂を――何かが縛りつけている。
これが解かれない限り、わたしは今後人の姿をとることができそうにないと肌身に感じられてならなかった。
身悶えする。声を上げようにも、軋むような声しか出せない。
そんなわたしを見て、オクタヴィアはさらに笑みを深くした。
「あはははは! それが今の王女様? まあ怖い、何ておぞましいお姿かしら!」
そう言いながらも、弾むような足取りでわたしの足元に近寄って来る。夢の中である限り自分がわたしに危害を加えられたりはしないとよく知っているのだろう。
「ご機嫌はいかが? 気位の高い高慢ちきで取り澄ましたお姫様! あの時はあたしに恥をかかせてさぞよいご気分だったことでしょうけど、こうなっちゃみじめなものよね! ざまあみなさい、邪悪なドラゴン!」
幼い言葉を稚拙に連ねてわたしを罵る。どうやらあの一件は、本当に彼女にとって屈辱的だったらしい。
言いたいことはあるが、口を開いても単にオクタヴィアを喜ばせるだけだ。そう認識したわたしは、じっとその場に佇んだ。
「ねえアガレス、こいつが何を考えているかがわかんないとつまんないわ」
「では元に戻しましょうか?」
「なんでそんなことすんのよ! 姿も声もそのままで、ただ思っていることはこちらに伝わるようにしなさいよ!」
「かしこまりました」
その瞬間、わたしの中で何かが外に開くような感覚があった。泳いだ後に耳に入っていた水が抜けていく時のような雰囲気。
――……アガレス。
「聞こえておりますよ、リネット様」
「こんな奴に様をつける必要なんかないってば! ……でも、ほんとにアガレスは何でもできるのね」
わたしはオクタヴィアを見下ろした。
――ポートスパンのオクタヴィア。
「な、何よ」
――わたしを逆恨みするのは構いません。このような姿に身をやつしたことも、わたし一人の問題であれば、まだ耐えられます。
「はん、何殊勝なこと言っちゃってんのよ。どうせ建前のくせに」
いかにもその通り、建前だ。こんな目に遭わされて耐えられるわけがない。でも、建前を押し通すべき場面というものはある。
――ですが、あなたの私怨がエルスバーグの罪なき民を多く死に至らしめた。そのことについては、今、どのようにお考えか。
「そんなの、あたしのせいじゃないわよ。アガレスがまどろっこしいことしたのが悪いんじゃない」
――今、と問うている。すでに事は起こり、結果が生じた。それに対してあなたはいかように考えるのか。
重ねて訊ねると、オクタヴィアはそっぽを向いた。
「別に知らないわよ。よその国の兵隊なんかが何人死んだって、あたしにはこれっぽっちも関係ない話だもの」
――……わたしは、あなたを許しません。決して。
「許さなければどうだっての? 何かできるものならしてみなさいよ!」
貴族の家に生まれた下賤な娘は、わたしを挑発するように手をひらひらと振った。
「ところでオクタヴィア様。明日の成り行きですが……」
アガレスが、娘に耳打ちした。
「あはははっ! それいいわね! こいつってば、今よりまだ酷いことになるんだ!」
手を打って、わたしを指差し、これ見よがしに笑う。
わたしはただそれを見つめる。その程度の言葉で動じたくないという気持ちが強かったが、これ以上どう状況が悪くなるのか見当がつかないせいでもあった。
「気に入っていただけましたか?」
「そうね、大満足!」
かりそめの主従による会話が続く。
「わたくしからはこれ以上するべきことが思いつかないのですが、オクタヴィア様には何か案がございますか?」
「何よそれ。考えて手を打つのがあんたの仕事でしょ」
「ですから、これまでわたくしは色々考えて様々に手を打ってきたわけです。リネット王女をここからさらに虐げる方法は、当面思いつきません。オクタヴィア様には何か考えつくことはございませんか?」
重ねてアガレスが問いかける。
「んー、別にないわ」
「そうですか。何か思いついていただければ、それの実現に向けて努力いたしますが?」
もう一度問われしばらくは考え込んでいたが、結局大したことを思いつかなかったのか、首を横に振る。
「しつこいわねー、もういいわよこれで」
「はあ。もういい、ですか」
わたしと話す時と違ってそれまで無表情に振る舞っていたアガレスが、初めてオクタヴィアに向けて笑みを浮かべた。
ひどく邪悪な笑みに見えた。
「それはすなわち契約の完了ということでよろしいですね?」
「さっきからうるさいわよ! そろそろこのつまんない場所から元のベッドに戻しなさいってば!」
幼児のように手足をばたつかせる娘を、アガレスは冷ややかに見つめた。
「契約完了。ゆえに今後、わたくしは貴女に従ういわれはございません。そしてわたくしは、貴女に代償を要求いたします」
「……代償?」
「貴女が作動させた杖には注意書きがついていたはずなんですがね。まあ、貴女バカですし、ろくに読まずにでたらめに動かしたみたいですから、気づいてなかったとしても不思議はないんですが」
「アガレス! 何よその失敬な口の利き方は!」
「言ったでやんしょ? 契約は終わったって。正直この六十日間、苦痛で苦痛でたまりませんでしたよ、貴女みたいなバカ娘の醜い願いを叶えるために東奔西走するのはね」
すっかりわたしの知るいつもの調子を取り戻したアガレスは、肩をすくめるとオクタヴィアを見下して言った。
「で、あなたが知らずに契約まで済ませた『代償』なんですがね。貴女の魂そのものですよ。ちゃっちゃと渡していただきます」
「……え?」
「え、じゃないですよ。魂。心。悪魔がそれを要求するなんて、砂漠で喉の渇いた人間が水を求めるのと同じくらいありふれた話だと思いますがねえ」
「あ、ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
「待ちません。貴女の願いは叶った。リネット王女はこれ以上はなかなかないってくらい完全に破滅した。貴女自身が契約完了を否定しなかった。なら、こちらはこちらで最後の清算を済ませても、何ら問題はないでしょう?」
「だ、だって、あたし、そんなの知らなくて――」
わたしもすでに知っていたし、たとえ聞かされていなくても推測は容易だった話なのだが、オクタヴィアには本当に寝耳に水だったらしい。
「無知は罪ですよ。人生最後にいい教訓を得ましたね、お嬢さん」
アガレスは、掌をオクタヴィアに突き出す。
するとそこへ引かれるように、娘の身体から光る玉が飛び出して、掌の中に収まった。
――死んだのですか?
「正確にはまだですね。魂がしばらく抜けてても肉体は動いてるものです。リネット様の魂をそちらに宛がってしまえばちょうどいいのかもしれませんが、わたくしの立場上それはできないので悪しからず」
――それは、わたしからもごめんこうむります。
人間の、それも同年代でそれなりに身分の高い、少女の身体。今の身体に比べればもちろん魅力的だが、それでも我慢できることとできないことはある。
「まあ、そう言うだろうと思ってました。かと言って腐らせるのももったいないので、適当に見繕っておくとしましょうかね」
――当人の魂はどうするのです?
平然と悪魔とそんな会話ができる自分が不思議だ。やはりわたしは魔物として生きるうちに、すでに人の道を踏み外しているのかもしれない。
「そうですね。食べ応えがあるなら別の身体に移植したりしてじっくり感情をしゃぶり尽くすところなんですが、あいにくこの娘は虫みたいなものですからちっとも美味じゃない。まあ、相応しいところへ落ち着くんじゃないかと思いますよ」
光る玉を無造作に弄びながらアガレスは言った。
「ところで王女様」
――何ですか?
「明日、貴女様に何が起きるか教えて差し上げましょう」
そう切り出すと、アガレスはわたしに待ち受ける事態について話し始めた。
「では、さらばです」
わたしとの会話を終えると、アガレスは闇の中に消え失せた。
終章……六十一日目
「さあて、機嫌はどうだ? 楽にしてろよ」
冒険者は昨日と同じようにゾンビのロビンと二人がかりで、縛り上げられたわたしを檻からずるずると引きずっていく。その行く手には、借りきったらしい村の倉庫。広々とした床に描かれているのは魔法陣。
「あの冒険者は魔物使いです。それも、ちょっと外法に手を染めていましてね」
昨晩の夢の中でアガレスは言った。
――魔物使いの外法とは?
魔物を手なずけ使役する冒険者。そこにどのような禁忌があるというのか。
「あのゾンビ、不自然でしたでしょ? いえゾンビそのものが不自然と言えば不自然なんですけど」
わたしは魔法陣の上に転がされた。少し離れたところにもう二つの魔法陣があり、三つで正三角形を構成している。その片方に、ゾンビが足を踏み入れた。
――確かにそうでしたね。背中に翼を生やし、触手も備え、呪文を使った上に、戦闘となると異様に素早くなりました。
「つまりあれが、あの冒険者の研究の成果ですよ」
――魔法か何かで、魔物に特殊な能力を付加するということですか?
「惜しい。もう少し強引な手です」
わたしとロビンがそれぞれの魔法陣に完全に入っていることを確認すると、冒険者は呪文を唱え出した。西部では耳慣れない、恐らくは東方の言葉。
それと同時に足元の魔法陣が光り輝く。床に描かれていたはずの紋様が回り始め、わたしの身体を飲み込んでいく。
目を転じればゾンビのロビンも同様に、魔法陣の中に吸い込まれていくところだった。
「モンスター同士を合成させるんですよ」
アガレスの言葉にわたしの理解が追いつかない。
「呪法の一種で二体のモンスターを溶かし、粘土細工のようにぐちゃぐちゃにして一体化し、それぞれの持つ長所や特性は生かしたまま新たなモンスターを作り出す。無理矢理一つにされる当事者の意思を除けば、実に合理的で優れた手口ですな」
自分で料理をした経験はないが、料理しているのを眺めるのは好きで、しばしば城の調理場へ足を運んだことがある。
今のわたしの身体は、たぶんその時に見た一塊のバターのようになっていることだろう。熱せられた鍋に放り込まれ、あっという間に溶け出して、他の材料と混ざり合っていく。熱こそ感じないものの、わたしは間違いなく身体が溶けていくのを、また他の存在と混じり合っていくのを、感じていた。
昨晩そう聞かされて、わたしは直前にオクタヴィアが手を叩いて喜んでいたのを思い出した。たぶんあの娘はわたしが何と合成させられるのかも聞いたのだろう。
一方わたしは自分で推測した。最も強い手駒とその次に強い手駒。より困難な局面に挑む上では、この二つを足すのが最善の選択のはず。
つまりわたしは、ただの醜いドラゴンよりもなお無惨な存在になるわけだ。
――心は、どうなるのです?
身体に関しては諦めもつく。どの道、今の身体に未練などない。むしろ強化されれば生き残る確率が高まるのだから、容貌などどうでもいい。
それでも、心が変わってしまうのは恐ろしかった。
アガレスは、おもむろに口を開いた。
魔法陣の中で肉体が混ぜ合わされているわたしのすぐ傍に、誰かがいる。
――姫様姫様リネット姫様
わたしを呼んでいるわけではない。その声は、ただひたすらに一途である。
死者は生前の妄執に支配されると聞く。ゾンビの中に宿っている魂のかけらは、死ぬ間際に心を占めていた意志のかけらに衝き動かされて、骸となった後も動き続けようとしたのであろうか。
――食べ物食べ物
――食べる寝る交わる産む食べる寝る交わる産む
周囲には他の思念も屯していたが、いずれもより単純な衝動しか持ち合わせていなかった。色々足し合わされてはいても、あのゾンビの中心にはロビンがいたということか。
――ロビン。
わたしは、ロビンの思念に寄り添った。
「心も混ざり合う模様ですね。流されるがままにいれば」
――それはつまり、流されまいとすれば、わたしはわたしで在り続けられるということですか?
「はい、おそらく」
モンスターを合成するのにかかる時間はほんの一瞬。つまりその間に触れ合ったわたしとロビンの心の逢瀬もほんの刹那。
しかしわたしにとっては、一生忘れられないほどの濃密な瞬間だった。
――姫様、ご無事でしたか!
――ええ。あなたたちが助けに来てくれたのですもの。
――よかった。本当によかった。
――ありがとう。あなたたちのような家臣を持てたことを誇りに思います。……いえ、あなたという人に出会えたことを。
心が重なり溶け合っていくがごとき、恍惚の一瞬。
そのまま一つになってしまえれば、あるいは最も幸福だったのかもしれない。
でも。
――さようなら、ロビン。
わたしはロビンの心のかけらを己から引き剥がした。この精神世界で強力な意志を発揮できるわたしは、他の魂を次から次へと押し潰し、粉々に砕き、無に帰していく。
――姫様
――あなたの魂に誓って、わたしは人間に戻ります。あなたが敬愛したリネットに戻り、あなたの墓前に改めて伺います。だから、今はひとまずお別れです。
ああ、これもまた建前だ。
わたしは単に怖いのだ。ゾンビや触手と混じった結果、自分がリネットでなくなるのが恐ろしいのだ。それをこんな言葉で飾り、自分の選択を美化しようとしている。
――姫様、どうかご無事で。
なのにロビンは、無垢な声音でわたしに言うと、おとなしく粉々に砕かれていった。
――ロビン。
わたしは、ひとしずくだけ涙をこぼした。
「今も述べたように、精神世界では心の力がものを言います。他者を強く拒絶し消し去るくらいの意気込みで望めば、合成されても心まで変容させられることはないでしょう」
アガレスはわたしに明日の心得を説くと、座っている鰐の上で足を組み替えた。
「もっともその場合、魔物使いに不審がられる危険性はありますね。忠実な魔物と足し合わせたはずなのに反抗的な態度を取ったりしたら、怪しまれること請け合いでしょう」
――モンスターの身体に慣れた次は、猟犬としての生活に慣れる必要があるわけですね。
わたしがドラゴンの身体でため息をつくと、アガレスは慰めるように笑いかける。
「まあ、今は辛抱していれば、そのうち言葉をしゃべれるモンスターになれるかもしれませんよ。その時にうまくやれば、『リネット王女』の身体を取り戻すことだってありえない話じゃありません」
妖しくもどこか人の良さそうなその笑顔を見ているうちに思い出した言葉を、ふと話題に出した。
――あなたに関して『慈悲深い』とする評がありますね。
「そうですね。とんでもない勘違いだとは思いますが」
――けれど今回、わたしは何度かあなたの慈悲に助けられてきたように思います。先ほどの助言もそうですが、この身体にされる直前直後の警告、や、励まし……
言いかけて、改めて意識した。
この出来事のほぼすべてを仕組んだのはアガレスであることを。発端であるオクタヴィアと末端で直接わたしを虐げた自称魔王の間に位置してはいるが、オクタヴィアの漠とした恨みに具体的な形を与え、ダークエンペラーに予言という形で詳細な示唆を与え続けたのはこの悪魔であることを。
そして思い出す、初めて出会った時に聞かされた魔族の糧。
「おわかりになったようですね。わたくしの『慈悲』の意味が」
――ええ。
気がつくと、わたしはそれまで立っていたのとは別の魔法陣の上に立っていた。全身を縛っていた鎖も存在しない。
自分の身体を見下ろし、覚悟していたにも関わらず、その新たなおぞましさにやはり愕然としてしまう。
爛れ、腐れ、いくらかは骨まで剥き出しになったドラゴンの死体。それが妖力によって動いている。
ドラゴンゾンビ。それが今度のわたしの身体だった。
「ちょっと身体を動かしてみな」
魔物使いは気軽に声をかけてきた。
腐汁を垂らし今にももげ落ちそうな前肢を、試しに持ち上げ振るってみる。と、それは生きたブラックドラゴンだった時を大きく上回る速さと勢いを有していた。危うく床を壊してしまいそうになる。炎も問題なく吐けた。
「後は、背中の翼の具合も見たいな」
言われて初めて翼の存在を意識する。ドラゴンの巨体を持ち上げるに足る大きな翼――もちろんそれも腐りかけだけど――が生えていて、羽ばたかせるとふわりと宙に浮いた。
「それと、魔法」
生まれてから一度も習ったことがないにも関わらず、わたしは特段意識するまでもなく、昨日ゾンビのロビンが用いたのと同じ魔法を一通り発動させることができた。この腐った脳のどこに記憶されているのやら、つくづく不思議に思う。
「で、隠し武器の麻痺毒ガスと触手」
喉の奥に炎を生む器官とは別の存在を感じる。そちらへ意識を切り替えて吐き出すと、紫色に濁り果てた煙が猛烈な勢いで発生した。
最後に腹に力を入れると、メバのそれによく似た触手が飛び出し、わたしの意思に従ってぬらぬらと蠢いた。
エルスバーグ王女リネットが、つくづく化け物に成り果てたものである。
「さ、行くぜ。昨日の洞窟を隅から隅まで探索して、王女様を見つけ出す。それさえ済めば後は魔王の居城に乗り込んで成敗するだけだ」
自分がすでに王女を見つけているとも知らない冒険者に連れられ、わたしは倉庫の外へ歩み出た。
すると、倉庫の屋根からふらふらと飛んで来たものが、わたしの皮膚にたかる。今のわたしにとっては小さな、でも人の掌くらいは大きな、蜂や虻を連想させる不気味な虫。
「へえ、デビルワスプか」
魔物使いはわたしにへばりついているそれを見て言った。
「なかなか珍しい魔物じゃないか。基本的に人間を強く警戒するはずなんだがなあ……」
そんなことを言ってる間にも、虫はわたしの身体を這いずり回る。
そして、首筋から顎を回り込んで鼻先に出たところで、わたしと目が合う。
それだけで、閃くものがあった。
「自分から寄って来るモンスターなんてそうそういないし、とりあえず連れて行くか。何と合成すればいいかはよくわからんけど」
わたしが前肢で叩き潰すよりわずかに早く魔物使いが言い、今のところは『ご主人様』に逆らうのもためらわれるわたしとしては、この虫を殺すわけにもいかなくなった。
矮小な虻は、わたしの身体を好き勝手に歩き回り、時折腐った皮膚をぺちゃぺちゃとさも美味そうに舐め上げていく。
こんな姿になってまで、オクタヴィアはとことんわたしに嫌がらせをしたいようだ。それでも極力こちらの前肢や尾や翼に打たれなさそうなところを選んで飛び回る辺りが実に浅ましい。
もっとも、浅ましさではわたしも大差ないことに思い至り、内心で苦笑する。
ならば、浅ましかろうがとにかく生きると決めた以上、つまらぬ虫に煩わされるくらいは甘受しよう。これしきのことも辛抱できないようでは、王女の姿を取り戻すなんて夢のまた夢だ。
不快な感覚に耐えながら、わたしは昨夜アガレスと交わした最後の会話を思い出していた。
――あなたの『慈悲』の意味。それは、例えば今回なら、わたしを簡単に絶望させてしまわないため。無気力で空虚な、感情に乏しい存在にしてしまわないため。
なぜなら魔族は、生物の感情を食するから。とりわけ激しい感情を好むから。
――明日起こることを今告げたのも、そのため。わたしが魂まで変わり果てることを恐れると期待して。あのロビンみたいにわたしが薄ぼんやりした存在になっては、餌がまずくなると考えたからでは?
「まったくもって仰せの通りです。アモンは今の貴女の心の有りようがずいぶんお気に入りのようでしてね。わたくしとしてもあれに恩を売っておくのは得策というわけで」
アガレスは、悪びれもせずおどけた一礼をよこした。
まさに、悪魔。
どれほど憎んでも憎みたりない悪魔。
そうした憎いという気持ちすらもこの者にとっては滋養となるのだろう。
だから嫌がらせに、というわけでもないが、わたしは敢えて首を垂れた。
――……ですが、それでもわたしはあなたの慈悲に感謝します、アガレス。
「え?」
戸惑った顔。もしかしたらこのぺらぺらとしゃべり無意味なまでによく笑う悪魔がわたしに初めて見せたかもしれない種類の顔。
――あなたが教えてくれなければ、明日わたしはわけもわからずロビンと一つになり、鈍重な魔物になっていたことでしょう。それを運良く免れたとしても、ロビンの心と触れ合う機会を虚しく逸したことを悔やみ続けたことでしょう。いえ、それ以前、王宮から洞窟にさらわれた時や、ロビンが人としての命を落とした時、あるいはブラックドラゴンと身体を入れ替えられた時、絶望に陥ってとうに狂い果てていたかもしれません。だから、それらのことに関しては、感謝いたします、アガレス。
と、アガレスは明後日の方向を向いて、珍しくも激しい口調で言い返してきた。
「貴女をここまで破滅させた相手に向かって何を言っているのですか? そんなつまらぬ言葉を吐くのは、おやめいただきたい!」
――?
なぜここでアガレスが怒りを顕わにするのかわからない。まさか好意に類する感情を向けられたら害毒になるというわけでもないだろう。これまでわたしたちは、お互いに表面的なものに過ぎないと承知した上ではあったが、穏やかな、一種の敬意に近いものを示しながら、こうして夢の中で会話し続けてきたのだから。
……あるいは。
ひょっとしてアガレスは、自らの為した行為が感謝などに値しないと認識していればこそ、こうしてわたしの謝意を拒絶するのだろうか。
もちろん、これは人としての――少なくとも精神的にはまだ人としての――わたしが勝手に想像した感傷に他ならないのだろう。しかし、己が振る舞いの罪深さを自覚し、それがゆえに被害者から忌み嫌われることを望みこそすれ感謝などされたがらない、されたら拒んでみせる。……そんな姿は、魔族としてはひどく露悪的な気がする。
それではまるで、むしろ潔癖すぎるがゆえに自らの悪行を誰より自らが許せないというような……。
――魔族は、
「何です?」
――人の喜怒哀楽を糧とするならば、そしてもはや死を無闇に撒き散らさないつもりであるならば……魔族は、人を喜ばせ楽しませることでも生きていけるのではありませんか?
「…………今さら、遅いですよ」
アガレスは、いつものへらへらとしながらも整った顔を醜く歪め、吐き捨てるように言った。
「我々は貴女方を利用し、食い物にする。それが定められた関係です。今さらどの面下げて、殺した者たちの子孫相手に愉快な道化を演じろと?」
アガレスのその言葉は、わたしの推測を否定するものではない。「今さら」。「殺した者たち」。それらが、この悪魔の抱える罪の意識を物語っているように思えてならないのだ。
もっとも、これはすべて今しがたわたしが思いついたことに過ぎない。確認しようにも、嘘つきかもしれない人に「あなたは嘘つきじゃありませんよね」と訊ねるようなものだろう。
「そんなことはどうでもよろしい。どうせ貴女は人でなくなったのだから、余計なことなど考えることもない。元に戻れれば別ですがね」
だからわたしは、それ以上真偽定かならぬ魔族の心情に分け入ることはせず、ただアガレスの言葉に乗ることにした。
――そうですね。わたしは元に戻ってみせます。
魔物使いの道具となり魔王に挑み倒れるか。その前に他のモンスターと合成されて自我を失い愚かになるか。首尾よく魔王を倒せても、自分が『リネット』だと納得させることができずに終わるか。はたまたそれをわからせたとしても、元に戻る手段が得られないまま、おぞましい姿の元姫君として未来永劫王宮の地下牢にでも監禁されるか。
わたしが元に戻れる見込みなどどれほどあることだろう。それでも、諦めることだけはしたくなかった。
――要求を、一つ。その暁には、夢の中でのこの姿も元に戻していただけませんか?
「いいでしょう。その時にはもう一度貴女の夢を訪れると約束しましょう」
わたしに視線を戻し、完全に平静を取り戻したアガレスが言う。
――待っていますわ。
「これっきり二度と会うことはないでしょうがね」
アガレスが唇の端を吊り上げる。わたしはドラゴンの顔なので笑えなかったが、心の中で笑みを返してみせた。
この悪魔ともう一度会いたい。言葉を交わしたい。そう強く願った。
「では、さらばです」
アガレスは一礼すると、闇の中に消え失せた。